蹴馬鹿の窓 NO.19

憧れの地へ。




風が冷たい。
昨日の大雪から一転して 空は晴れ渡っている
それでも 国立競技場に吹く新年の風は 身を縮まらせた。
古いコンクリートの階段をひとつひとつ登り 振り返ってみる
6万人。 端から端まで 埋め尽くされている座席 青々としたグラウンド
しばらく その光景に 見惚れた。

ずっと 憧れていた 国立競技場。 やっと 来た。
その舞台は 天皇杯 決勝。

赤坂のホテルを出て ここまで歩いてきた。
青山通りから 外苑の銀杏並木を抜け 遠くに国立が見えてくる
凍った歩道  散歩連れの子犬  風に舞う枯葉  穏やかな日差し  歩道横のベンチ
聞き覚えのある音楽が耳に入る 女子サッカーの表彰式が行われているようだ
自然と足早になる 神宮球場を越え その巨大な憧れが 目の前になる
もう一度 チケットを確認する 
“1月1日 天皇杯 決勝” ポケットに仕舞う
人だかりの向こう 入場口が見える ぎゅっと拳を握る
人ごみを掻き分け ジュビロ側 ゴール裏 最上段へ。


「かっちゃん 中学 入ったら サッカー やりなよ」

3つ上の姉がそう言ったのは 小学校卒業間近の頃。
そうか あれから 30年近く 経ったんだ。

当時 私の通う中学のサッカー部は 急速に力を付けていた
姉の世代 中学の大会を勝ち進むたび 学校で話題になり 部員は憧れになっていた
そして 姉の言うまま 仲間3人を引き連れ サッカー部へ入った
毎日 真っ暗になるまで練習が続いた それでも楽しかった
父兄からは 厳しすぎるトレーニングに苦情があったようだ
だが監督の熱血が冷めることはなく 部員への愛情も深かった
サッカーの“サ”の字も知らなかった自分が 少しづつ上手くなって行く
その感触が分かる だからなのか 言いようのない楽しさがサッカーにあった。

だが 夏が過ぎ 秋を迎える頃 練習へ顔を出さなくなった。
サッカーは好きだったが 学校が嫌だった 毎日 友達と遊び歩いた
その内 何度も問題を起こし サッカー部へ戻ることは出来なくなった。

そうして サッカーには 後悔と 憧れが 残った。

何度もサッカー部へ戻ろうとするも 戻れずに 中学も終わりに近くなった頃
衝撃的な出来事が起こった。
昭和53年 第57回全国高校サッカー選手権大会
地元の高校が全道大会決勝まで勝ち進んだ 対戦相手は 北の王者 室蘭大谷
地元校レギュラーのほとんどは姉の同級生 顔見知りばかり
TVの前で友人たちと固唾を飲んだ。 結果は0−3。 全国への切符は逃した。
たが 何もない田舎町で起こったこの出来事は とてつもない誇りになった
そして衝撃的な出来事は続いた 地元校を破って全国へ行った 室蘭大谷
山口・浦和南・徳島・本郷と次々に破り 決勝へと駒を進めた
毎試合TVを食い入るように見る そのひとつひとつに歓喜した
とりわけゴールキーパーの小西選手は 今も忘れられない
その風貌 果敢な飛び出し 存在感 どれも強烈だった。そして憧れた。
彼らの活躍 地元校の飛躍 サッカーへの想いが再燃した。
「高校へ入ったら もう一度 サッカーをやろう」 そう決意させた。

サッカーをやり サッカーから離れ サッカーに戻ろう
あの日 TVに映る選手たちを羨望しながら そう決意した。
その舞台が ここ 国立競技場だった。
だから 私にとって 国立はスタジアムのひとつじゃない
特別な 特別な 場所なのだ。


ダウンジャケットの下にセーターを2枚着ていた それでも風は冷たく
じっとしてると膝がガタガタと震える バッグから手袋を出した
赤い地の手袋 甲の真ん中に「Consadole SAPPORO」と入っている
首には 前日の埼スタで買った 藤色 藤枝東のタオルマフラー
我ながら 妙な格好だと思っていたが 魂だけは 一緒にいさせたかった。

選手たちが次々とピッチに入る
ジュビロサポーターからは 一人一人にコールが起こる
私の周りの人たちが立ち上がった どの人も その表情は 喜びに満ちている
そうだろう。 元旦 日本一を決める戦い そこに自分の応援するチームがいる。
プロ・アマ総勢80チームを勝ち残った 頂点を決める試合
ここに居れるだけで幸せに思うだろう。コールを聞くたび 羨ましく思った。

スタメンのコールが終わり 控え選手に移った
最後にコールされたのは 中山 雅史。
彼だけは3つのコールがあった そして他の誰よりも大きく会場に響いていた
ジュビロにとって 中山はスターであり 象徴であり 誇りでもあった
ブルーの渦の中に紛れ その息吹を直に感じた。
首に巻いた 藤色のマフラーが急に誇らしく思えた。

僅かな沈黙の後 選手入場 音楽が流れる ジュビロコールが起こる
国歌 そして川淵キャプテンが“書”を書き始める
スクリーンに映し出された文字は 「DREAM」
“夢があるから 強くなる” そう言った。
私はこの人が好きだ。パフォーマンスと分かっていても感動する。
そして これからの目標を語る 

JFA2005宣言
2015年 サッカーを愛する仲間を500万人にします
そして 日本代表チームは世界のトップテンのチームとなります。

2050年までに サッカーを愛する仲間を1000万人にします
そして ワールドカップを日本で開催し 優勝します。

馬鹿げた話し と笑う人もいるでしょう。夢が遠すぎる と思う人もいるでしょう。
ただ 6万の観衆を前に まったく臆することなく 夢を語る
その声に その表情に 曇りはなかった。この人は本気なんだ と思った。
なにより感動したのは「日本でワールドカップを開催する」というひと言
2002年を納得していなかった。それが嬉しかった。
日本単独開催を実現させたい。そんな願いが込められた宣言だった。

空気の冷たさに反して 心がぐっと熱くなった。

選手たちが散る センターサークルにボールが置かれる
静寂 主審の笛 天皇杯決勝が始まった。


誰にでも憧れはあると思う どれほど年を重ねようと 焦がれるものがある
私には それが サッカーであり 国立競技場だった。
行ってみれば ただの古い競技場だ サッカー専用でもない
ひび割れた階段 暗い通路 汚れた壁
だが 私には全てが尊かった。
その刻まれた歴史ひとつひとつが 宝のように思えた。
首都圏の人は「大げさな」と笑うでしょう
けれど私には ずっとずっと憧れで 遥か遠くに感じていた場所だったのです。

姉が言った言葉から 30年。
途方もない年月を経て 憧れの地へ辿り着いた。
試合は僅か2時間で終わり 足早に競技場を後にした
だが その2時間の間に色んなものが凝縮されていた
そこで感じた息吹 熱気 歓喜 全てのものを大切にしよう。

そして いつの日か この元日に この国立で
赤と黒のマフラーを 赤と黒のレプリカを 選手のコールを
そう願わずにいられなかった。

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