宿題コーナー!!


厚別を去りゆく者達へ 2004.2.20 consa zippo


 現代とは恐ろしい・・・、イヤ、素敵な時代である。
 
 かつてなら見向きもされなかった世界が脚光を浴びる。そう、インターネットというメディアに
乗って。
 
  最近の私のお気に入りのサイト、それは「岩波新書のコレクション」、「駅弁表装紙」、そして
「ギザジュウ収集」をテーマとしたものである。
  ※「ギザジュウ」:縁にギザギザのついた十円玉のこと。
          発行年は昭和26年から34年頃だと思う。
  
 私自身、岩波新書も駅弁もギザジュウも何ら関心はない。だが、サイトを作成している彼らの
「心情」はわかるのだ。決して「日の目を浴びることはない世界」、いや「浴びさせたくはない世
界」に対する思い・・。
 
  ふと、苦い想い出がよみがえる。
  あれは15年前、いやもっと前だ。当時、私は版画に凝っていた。バブル絶頂期ということもあ
って、作風に関係なく「額縁の大きさ」が価格の目安になっていたような時代である。
  ある日、いつもの画廊で小さな作品を買った。素直にうれしかった。その後、その作家の作品
を数点集め、サイン会に並び、工房を見学させて頂いたりした。
 
  そして次第に、私のコレクションは豪華に、いやカオス状態へと陥った。あるところでサルバド
ール・ダリがあると言えば買いに行き、こちらのオークションでピカソがあると聞けば最後まで
セリに食らいついたりした。そして・・・、ついにはサンフランシスコの街並みを歩く私の姿があっ
た。手には浮世絵を抱えて。
 
  当時、浮世絵の相場はアメリカの方が遙かに高かった。日本国内の3倍の値札を付けるアメ
リカ。一方、アメリカ国内の新進作家、といえば聞こえはよいが、評価も画風もろくに定まって
いない若手の作品に法外な値を付ける日本。
 
  おわかりいただけただろうか?浮世絵を抱えて渡米し、帰りには訳のわからない「現代アー
ト」を抱えて帰ってくることに快感を覚えていた私だった。むろん、そこには作品への、作家へ
の「想い」はとうに吹き飛んでしまっていた。
 
  もちろん、こんな「素人」が成功するはずがない。わずかな小銭と薄汚れた版画シートだけが
私の手元に残った。
 

  
 
 時は流れ21世紀も数年を過ぎたある日。
 
  我が家の押入を整理してみる。「子供たちのおもちゃ」や「使う当てのない電化製品」に紛れ
てあの、「小さな作品」が出てきた。もちろんすっかりホコリにまみれて。
 
  20年ぶりに見たその作品は、やはり小さい、だが・・・。
  もともと、「銅版画」という材質・技法であるため暗い作風であることは確かだ。しかしながら、
その暗さの中に灯る一筋の明かり、そして希望。
 
  額縁も壊れ果ててしまっていたため、あの「いつもの画廊」へと向かった。額縁を買い換える
ために、そして「新作」を探しに・・・。
 
  画廊のオヤジさんは、私のことなどすっかり忘れていた。無理もない・・、だが、「小さな作品」
のことは覚えていた。裏をひっくりがえし、「ホラッ、これ、俺が付けたシルシだよ!」何て言いな
がら・・・。
 
  「まぁ、座りなさい」と言いながら、この作家さんの今について教えてくれた。
 ・ あまりにも繊細な画風であるため、目を悪くされたこと。
  ・ 「大量生産」ができない技法であるため、収入が伸びない・・。
  ・ メルヘンチックな作風だったが、娘さんの成長に伴いイメージがわかなくなった。
 
  その他お聞きしたあと、「新作」を見せてもらった。
  そこには暗い・・・、ただひたすら暗い作品が並んでいた。
 

  もちろん私一人が彼の作品を集め続けたところで作風は変わらなかったであろう、だが私は
うつむいてしまった。
 彼を見捨てた理由、それは彼の画風ではなく、将来値上がり益が見込めないことだったか
ら。果たして「捨てた」のは「彼」なのか、「私自身」なのか・・・。
 
  幸いにも私の手元には「小さな作品」のほかにも数点彼の作品が眠っている。インターネット
のオークションにも決して出品される事はない、これらの作品とともに見つめ直していこう、私
のこれからの人生を。
  

 [一口解説]
  今、見限ることは簡単です。ですが・・・、本当に「自分の眼」で見て、判断して、その上で捨
てないと、後でとんでもない後悔の念にさいなまれることもありますよ。
 

 
「臆病な解説者」 2004.2.22 A2
 
初めて買ったジャズのCDは「チックコリア アコースティック パンド」のライブアルバムだった。
その中に収録された「ハンプティダンプティ」という曲がなんとなく好きになった。
よくはわからなかったが、スピード感がジャズ未経験の私には心地よかった。
Aパートは10小節。8の倍数より2つ多く、5回演奏されるBマイナーメジャーセブンスは4の倍数
より一つ多い。長一度づつ上がるかのごとく続くAパートに対してそれに続くBパートは短三度
づつ下がっていき、解析を試みる若きプレイヤーは「巨人の足跡」を連想する。

CDの収録時そこに居合わせた多くの人が今何が起こっているかを理解できず、ソロの切れ目
に遅れて拍手が起こるのが聞こえる。Bパートの終わりまでの14小節で
(また8の倍数ではない!!) テンションを落ち着かせてからブロウし始めるパティトゥイッチの思
考は誰の耳にも届かない。
92年のブルーノートに居合わせた幸運な傍観者の中に、注意深い人物がいたならば、
彼はモニターの音量をあげながら仕方無さそうに伴奏するベースプレイヤーを見たかもしれな
い。しかし、私はそれをビデオで確認するまで「すばらしいラインだ。」とその意思を
理解できずにいた。

 そこで何が起こっているか解りにくい、という意味でピッチにいるプレイヤーと一般サポーター
の間の距離は、ジャズプレイヤーと解説者のそれに似ている。解説を職務とする彼らはけして
この演奏を話題にすることは無く、勤勉なプレイヤーを志す若者 (多くは貴重なヴィニーの「ジ
ャズ」に聞きほれるドラマーであろう) が夜通し議論する程度だ。
日本代表の試合のTV放送での木村氏のうなりは、がなりたてる実況の向こうにかき消され、
それがTVの前のサポーターに解説されることは無い。

 運良く、実際にサッカーをプレーする機会を得た私が感じるのは、弱いコンサ戦士も実は
非常に凄いという1点だ。4時間のプレーで私はコンサ戦士たちとの差を感じ、
その上にいるであろう日本代表選手のトラップに前より大きく感動するようになった。
サポートするとは何かを真剣に考える上で、サッカーを実際にプレーし、楽しむというのは大切
だと思う。もちろんサッカーをプレーしなくても日本代表のスタメンを語ることは自由だし私もゲ
ームで凄い能力値を持つ選手を数字順に並べることはできた。しかし、その選手たちはピッチ
で何を考えているのであろう。彼らには何が見えていたのであろう。

 譜面で初めてみたチックコリアの「ハンプティダンプティ」には10数箇所の約束事
記されており、Dメジャーの際増四度上のFシャープを選択したパティトゥイッチのランニングに
ため息が出た。

ピッチの外側からだけではけしてコンサドーレのことを理解することはできないと今の私は確信
し、「チームとしての約束事が無い」とコンサドーレを語ることに以前より非常に臆病になった。
「パンドのリーダーはドラマーだ。」ジャズの賞を総なめにしたマイケルブレッカーはそう語った
が、私は佐藤尽がコンサドーレのチームリーダーに適任かを語ることはできない。
 
参考音源「チックコリア アコーステック バンド/ライブフロムザブルーノート東京」
       「チックコリア アコーステック バンド/アライブ」


「幻想でも構わない」  2004.2.29 蛇乃目亭ルンバ  

「もはや戦後ではない」
この言葉が流行したのは1956年(だそうだ)。僕は生まれていない。
この言葉の前には「戦後」と「戦前」がある。もちろん「戦前」→(「戦中」)→「戦後」→「もはや戦
後ではない」の順になるのだが、何をもって「戦後」と「もはや・・・」の境目と判断するのかは分
からない。GDP(当時はGNPか)なのか国家予算なのか株価なのか30歳サラリーマンの平均
給与なのか。それとも とにかく誰かが「もはや・・・」と言えば みんなそんな気になるものなの
か。それじゃ ただの"気分"じゃん!とも思うんだけど、案外そんなもんだったりするのかもしれ
ない。

1984年。今から丁度20年前、『ユニバーサル・プロレスリング梶x=略称『UWF』が誕生した。
現代のプロ総合格闘技の あらゆる面での先駆者的存在である。但し、誕生当時は "只の"
(そしてイワク付きの)プロレス団体に過ぎなかった。そんな団体が、ある時を境に大きく変貌し
ていく。初代タイガーマスク(スーパータイガー)の入団だ。人気者を手にした彼等の興行では、
その日から華やかなプロレスが夜な夜な繰り広げられた ―― のではない。むしろ逆だった。
かねてから格闘技そのものに神経を注いでいたスーパータイガーは、「シューティング」という
言葉を持ち出し、従来のプロレス的手法による演出を極力避け、ルールを明文化し、キックが
できる専用のシューズまで作り、真剣勝負のスタイルを "売り" にした。営業サイドも、興行ロ
ードにシリーズ名を付けたり、選手間にランキング制を敷いたりと、あの手この手の打ち出しを
した。藤原嘉明&木戸修という裏カリスマを擁し、さらに "神様" カール・ゴッチを最高顧問に
据えたUWFは、僕達マニアのハートをガッチリと掴み、『週間プロレス』と編集長のターザン山
本をもしっかりと掴み、大当たりをした。マニアは文字通り "熱狂" したのだ。以降 我々プロレ
スファンは、スーパータイガーを革命家と崇め立て、彼の本名を使って「佐山以前」「佐山以後」
という言い方をするようになった。
そのまま順調に行くかと思ったUWFだが、スポンサー絡みのイザコザや プロレス界名物の内
紛があったりして、1985年、本当に惜しまれつつその短い命を終えた。僕等にしてみれば「志し
半ばに」という感じだった。
その後 前田日明を中心に据え、業務提携をした新日本プロレスのリングに上がりながら お金
と人脈とノウハウを蓄えた彼等は、1988年に "新生"『UWF』=いわゆる『第二次UWF』を旗
揚げし、それが社会現象とも言える一大ムーブメントとなった。ここから先の展開は スムーズ
に昨今の総合格闘技ブームへと連想される。

整理すると、
@佐山以前・・・・・従来のプロレス
A佐山以後・・・・・マニア熱狂
B第二次UWF・・・世間が熱狂=社会現象 →プロ総合格闘技への基盤
ってナ感じだろうか。

それにしても 人は何に対して熱狂するのだろう?Bはわかりやすい。基本的には楽しく盛り上
がっていれば、「ワー」「キャー」「オオ!」的ノリがあれば、それでイイのだ。
ではマニアが熱狂するAは? @に対するアンチテーゼとして存在感を発するAは? @には
戻りたくない!「戦前」の事なんて忘れたい! という強い気持ちが源泉のAは?
その答えは、僕の中では、「理念」なんである。現状に対する不満があり、目指すべき改善点
があり、それらを踏まえた上で 更にその先の "天竺" をも見据えている「理念」なんである。

UWFのAの時代は、本当は理念云々というよりも、ガチンコを "売り" にせざるを得なかった
事情・ランキング制を敷かざるを得なかった事情・サブミッションを主流とせざるを得なかった
事情・・・等々、マニアが「これぞ本物!」「俺達が求めていたものはこれだ!」的に感じていた
UWFの特徴が 実は止むに止まれぬ事情による苦肉の策(演出)で、それが結果としてケガの
功名的に評価に繋がった側面があったという事は 今では充分に想像がつく。佐山一人が崇め
奉られていたけれど、単にわかりやすい "広告塔" だったから 彼が表に立っていただけかもし
れない。UWFやその周りの環境が、純粋率100%なものだけで構成されていたとも思わない。
カネが絡んでいるのだからドロドロしているのは当然。ましてやプロレスの興行なんて、僕の知
る限りでは 怪しい人たちが取り仕切る事が これまたその世界での常識でもあるようだし。
それでも当時は、「反則負け」や「両者リングアウト」や「ロープを使った攻撃」(←リアリティーの
無さ!)に辟易していた当時は、彼等が見せて(演出して)くれた「理念」と試合内容に熱狂させ
られたのだ。とっても幸せだった。

「戦後」の復興パワーが生まれたのも、みんなで「豊かになるんだ!」と拳を握り締めたからな
のではないだろうか。それが善い事なのか悪い事なのか、誰かが何かを意図して掲げた旗な
のかどうかは別として、とにかく「理念」というか「スローガン」的なものがあって、それを目標に
頑張れたのではないのだろうか。当事者ではないので実感はないんだけれども。

Jリーグにも「理念」がある。「百年構想」がある。僕はそこに惹かれる。
日本サッカー界も、やがて
  T.Jリーグ以前
  U.Jリーグ以後
  V.「もはや Jリーグ以後ではない」
と振り返る時期が来るのだろうか?

コンサドーレ札幌は?HFCは?
今の時点だと、
  a.岡田(武史)以前
  b.岡田以後
  c."新生"コンサドーレ』
なんて流れに整理されるのだろうか? 自分で書いておいて何だけれども、こんな括りはクソ喰
らえだ。これではコンサの歴史は薄すぎる。いや、コンサというよりも、サポーターとしての自分
の想いが 薄っぺらなものになってしまう気がするのだ。
UWFはAでマニアの心を掴み、二年余りの下積みの後、Bの段階で大ブレイクした。
コンサドーレに圧倒的に欠けていた「理念」。僅かに感じたのは やはりbの段階なのだが、しか
しそれは当時の監督個人のものであって、クラブのものではなかった(ようだ)。
クラブは世間の批判を浴び、金銭面でも崖っぷちに立ち、追い詰められて追い詰められて、社
長も交代して、リストラもやって、それで、やっとどうにか それらしきものが見えてきたような気
がする。どんなに簡単な事でもいい。その「理念」を目指した具体的な行動を ひとつずつキチ
ンとやって行けば、結果は必ず後から付いて来るはずだ。そしてきっと 新たな "熱狂" ととも
に歴史が作られて行くに違いない。

新しい何かを生み出していく情熱。実は僕は、勝ち負けはともかく、そういうものを観て感動し
たいんだよなあ。
 

「沖縄とダイビング」 2004.2.29 すが

みなさんの文才にはいつも恐れ入るばかりで、どうしてオレには才能が
ないのかしらと自分ながらガッカリしてしまいますが。
どうせオレにはコラムなんて書けないもんねー。と開き直ってみます。
でも、みんな最後にコンサやサッカーと関連づけて、とってもお上手です。

で、私の話は「沖縄とダイビング」で・・

北海道出身の私は、北国と正反対の「あたたかい南の海」に
とてもあこがれてしまうわけで、沖縄大好きです。というか、沖縄かぶれともいうべく、
沖縄そば・ゴーヤーチャンプルー・海ぶどう・泡盛などに目がなく、
スーパーで見かけると買ってしまいます。女優でいうと仲間由紀恵が好き!
酒は瑞泉の古酒(クースー)の30度だねえ。などと言ってしまいます。
NHKで「ちゅらさん」をやっていたときは、沖縄に行かなくちゃと家族みんなで
行っちゃいました。

沖縄の独特の文化にひかれてしまうのですね。「てーげー」とかいって
細かいことは気にしないとか、時間も正確じゃなくていいとか。それとなんといっても
琉球音楽はいい。島唄ってすごいと思います。島の歴史を感じますね。
くやしいけど、北海道は歴史があさいから。開拓民の歴史からになりますからね。
もちろん、アイヌの歴史はありますが、北海道史的には分断された歴史になってますので。
北海道の文化的な特色っていうと、やっぱり、冬の寒さの厳しさとかからくる、
「北の国から」的な部分になるのかなあと思います。

さて、沖縄礼賛のようになってしまいましたが、ここからはダイビングの話。今まで、
伊江島2回、渡嘉敷島、本島真栄田岬の4回行ってまして、
それぞれのダイビングサービスにいろんな人がいました。沖縄の地元の人がやってる
サービス、本州からあこがれてアルバイトしてる若いダイビングガイド、
京都と沖縄に半分ずつ住んでひとりでサービスを経営してる人。
大変なこともいろいろあるんだろうけど、自分の好きなことを仕事にして、
自分も楽しんでいる人たちが居ます。そして、すごいサービス精神が旺盛。

サラリーマンの自分にはうらやましいと思ってしまいます。ちょっと表面的で
甘い人間なのかなと自分のことを思うのですが、好きなことをやり続けていくって大変なんだと
思います。ダイビングサービスの彼らだけじゃなくて、コンサドーレに入った若い選手たち。
君たちも好きなサッカーができて、とてもうらやましい。ただ、続けていくことは、とても難しい。
ケガをしたら、そこから復活する難しさ、そして結果が残せないと契約の終了が待っている。
サッカー文化が成熟してないなかで、とりまく環境はけっして明るくないけどれども、
若い選手たちは一生けんめいがんばっている。今年、もし負けつづけても、
エールを送り続けたいと思っています。


北の国によせる想いー三浦綾子さんー 2004.3.1 郷里

高校卒業後、親元を離れ学生生活を送ることになった私に、幼友達がお別れにとくれた2冊の
本。1冊は「ねむの木のこどもたち」宮城マリコ著、もう1冊は「塩狩峠」。旭川に在住されていた
三浦綾子さんの本である。
 
今の学生からは想像も出来ないほどの質素な4畳半一間の下宿で、始めの頃は
寂しさを紛らわす存在だった本。しかし、この本がきっかけで、三浦さんの本は
ほとんど読み尽くした。そしてまた読み返して今に至る。

「氷点」「残像」「病める時も」「天北原野」・・・そのあちこちに北の国での風景が舞台となって
登場している。20歳の時に保育学科の修学旅行で初めて6月の北海道の旅に。
キスリングを背負い、7泊8日。今も尚、あの時の新鮮な印象は忘れられない。
積丹半島の神威岬は、丁度エゾゼンテイカが斜面に乱れ咲く見事な景色で、どういうわけか天
北原野の貴乃が重なった。「病める時も」は、研修で訪ねた遠軽の家庭学級・・・。
 
当然、これらの本は結婚した時も行動を共にした。そして、今度は3人の子供たちがそれぞれ
本棚から出しては読んでくれている。私は・・・と言えば、8年前の北海道家族旅行で
塩狩駅を訪ねたのは、この「塩狩峠」の舞台となった場所を自分の目で確かめたかったから。
行きのフェリーでは日ごろの家事、仕事から解放され、この時とばかりに三浦文学に浸りきっ
て北海道の地を踏んだ。
 
あれから20余年が過ぎたが、時々これらの本を読み返すと、同じ本であっても20歳の時に読
んだ時とはまた異なった発見や感動を見つけられる。また、読み込むほどに深さが感じられ
る。たぶん、わたしは死ぬまでこれを繰り返しながら生きていくのだろうと思う。
 
三浦綾子さんの亡き後、旭川の地に誕生した文学館、見本林・・・今、一番私が訪れる機会を
心待ちにしている場所なのである。
 

ドライブはいかが? 2004.3.7 さくたろう

自分の家に自家用車がある生活が実現したのは確か小学6年だった。
私の父は車がなければ生活が不自由な北国に住んでいるのに、40になるまで
運転免許を取らなかった。なぜだかは解らないが、そうだった。
自分自身、その時不便は感じなかったが、あとで思い起こせば、家族でドライブにいった
記憶がないというのは少しさびしい。12歳くらいから家族でどこかに出かけるといっても
買い物くらいだった。外食というのも基本的に嫌っていたのだろう。

だから、自分の子供が小さい時はよく出かけた。田舎に赴任していた時期で
1時間も走れば海や山だったので、週末はほぼ出かけていた時期もある。
さすがに今はほとんどなくなったが、そうゆう経験をさせたことは
彼ら心のどこかに残るであろうと信じている。
別に家族で出かけることに拘っているわけではない。
友達でも、恋人でも、ひとりでも。

昨日、こんさくたろうの常連、すがさんとコンサドーレの練習試合を観に富士山の裾野まで
出かけた。あいにくの大渋滞。予測していたとはいえ、当然両者いらいらしている。
でもジェフ・ベック スティービィー・ワンダー エリック・クラプトン・・・・のCDがかかると、
「これよく聞きましたねえ」とか「学校さぼって、LIVEいきましたよ」とか
話題が膨らむ。

実はひとりでドライブが一番好きかも知れない。見知らぬ街までふらっと行き
読みたい本を読むとか。その土地の美味しいものをたべるとか・・・
私の場合、職業柄車での移動が多く、プライベートで自分の車に乗る機会が
少なくなっているからこそ、最近はそんな思いが強いのかもしれない。

恋人とのドライブの思い出?
ほろ苦いのがたくさんあるのでまた別の機会に・・・・。

さあて、じゃあどんな車でドライブしようか?

フェラーリでも軽自動車でも、工藤静香の絵がペイントされてようがいまいが
タイヤが太かろうが細かろうが、土足禁止あろうがなかろうが
どうでも良いのだが、無理してお金をかけたり、無理して改造して何になるのか?

このことを語るとき、自動車評論家 三本 和彦さん
(雑誌カー・グラフィックの執筆や知る人ぞ知るローカルTV番組「新車情報」のアンカー)の
ポリシーが参考になるはず。

@座った時に自分の頭と天井の間が拳を縦にして入るだけの余裕があること
Aトランクのスペースに定員分のゴルフバックが入ること
B車のパワー(排気量、馬力)はスピード出すためではなく
 あくまで危険回避(急発進など)ための「保険」であると言う認識

まず自動車は「人と物を運ぶ道具」であることが基本。そして安全に。
これには、いくつかのこだわりを持つべきだと氏は強く言い続けている。
自分の体に合った室内の広さ、高さ。そして自分の生活で必要なものを運ぶ
スペースがあるのか。それを基本としてそのあとから排気量や馬力を
考えりゃ良いこと。

「モノより思い出」って車の宣伝コピーは嫌いではない。
だからといって、DVDやNAVIをつけることから車選びをして欲しくない。
年に2,3回スキー場に行くために大きな4WDが必要か?

「こんさくたろう」的に結論付ければ
今まで、獲得して辞めて言った選手たちは「無理矢理つけたカーナビ」だった?
(ものすごく強引・・・・・)

さあ、3月です。気分をかえて!Let’s drive!


WE ARE THE CHAMPION
・・・ロック界の偉大な星 フレディ・マーキュリー
2004.3.11 しのかい

『伝説のチャンピオンWE ARE THE CHAMPIONS』(1977年アルバム『世界に捧ぐ/NEWS OF
THE WORLD』収録)はファンならずとも、いろんなスポーツの優勝決定時なんかに必ずといっ
ていいほど流れる曲で、誰もが一度は耳にしたことがあるという有名な曲です。(Jリーグでも
何年か前にジュビロの優勝が決まる試合の前にゴール裏サポーターが歌詞の書いた紙をくば
って練習していました。)

この偉大な曲の作者であるイギリスのロックバンド『クイーン』の存在を、始めて僕が知ったの
は今からもう20年も前のこと。当時、ベストテン北海道というローカルラジオ番組を楽しみに聴
いていた歌謡曲好きのごく普通の早起き小学生が、二人の兄貴の会話に入れてもらいたかっ
たという弟の単純な思いがきっかけで、いつのまにかクイーンのとりこになっていました。(端的
に言うと兄の影響ってことなんですけど(苦笑))

二人の兄が「ラジオGAGAがヒットチャートで○位に入った!」と楽しそうに会話していたのを尻
目に、メンバーの名前を紙に書いて必死に覚えようとしたり、アルバム『グレイテスト・ヒッツ』
(1981年発売)を兄に頼み込んでカセットテープにダビングしてもらい、漫画『1・2の三四郎』を
読みながらオートリバースで繰り返し聴いていた事を思い出します。
(このアルバム『グレイテスト・ヒッツ』はイギリスで10年以上もトップ100に居座り続け、イギリス
では一家に一枚状態のおばけアルバムです。クイーンがイギリスでビートルズと並ぶ国民的バ
ントと目されるのも、決して大げさな話ではないのです。)

クイーンの魅力は多彩な楽曲もさることながら、なんと言ってもフレディ・マーキュリーの希有な
歌唱力にあります。心に響き渡るパワフルかつ繊細な歌声に、一度聴いただけで魅了され、
圧倒的なライヴ・パフォーマンス(タイツ姿に短いマイクスタンドなど)にもとても感動しました。
かつて5度来日し、1979年と1982年に札幌でもライブが開催されていますが、(1979年の時は
なんと、さくたろうさんも見に行かれたそうです!)僕がいつかクイーンのライブを生で見たいと
思い始めた時は、残念ながらもうフレディの病気がうわさになっていた高校生の頃でした。 
1991年1月に最後の作品と言われたアルバム『INNUENDO(イニュエンドゥ)』を発売、同年11
月24日、彼はエイズによる急性肺炎で生涯を閉じます。(享年45歳)『グレイテスト・ヒッツU』が
発売された矢先の突然の訃報でした。

その後、残こされたメンバーにボーカルを追加しクイーン再結成といううわさが出ましたが、フ
レディの存在は他の誰にも、取って代わる事ができないということは言うに及ばず、それはうわ
さにしか過ぎませんでした。1995年に発売された正真正銘のラストアルバム『メイド・イン・ヘブ
ン』はまさにフレディ、魂の作品。まるで、自分の人生の終止符を見届けていたかのような名作
に思わず目頭が熱くなりました。

音楽をやっていたわけでもなく、専門なことなど全くわからなくても、なぜかクイーンに引き込ま
れていった青春時代。今、振り返ると、常にエンターテイメントとしての音楽を提供し続けてきた
唯一のロックバンドが『クイーン』だったのだと思います。フレディがこの世を去り12年の歳月が
流れ、日本でも最近ドラマ「プライド」で使用されるなど再び、脚光を浴び始めています。(テー
マ曲は『I WAS BORN TO LOVE YOU』はオリコン3週連続1位を記録!)フレディは病に負けて
しまったけど、彼が残した数々の名曲、そして彼の歌声は、何にも負けず、いつまでも生き続
けていくことでしょう。音楽とスポーツの絆となって永遠に心に残る名曲「伝説のチャンピオン」
をいつかコンサドーレの試合でも大合唱できる日がやってくることを夢見ています・・・。

 (CZさんに熱血掲示板の方でこのネタのきっかけを作って頂いたのでもう一度考え直してみ
ました。大変遅くなり申し訳ありませんでした!!)


射手座 AB型の女。 2004.3.21 kazua510

もんの凄く遅れた宿題提出です。
書くつもりはあったんですよ 現に色々と書いてはみたのですが
どうにもイマひとつピンとこない もっと面白いネタはないかと探しに探してたんです
で ここまで遅れると 多少開き直ったもので 1番身近なネタに ひとつ挑戦しようと。

題材:ウチのカミさん。

さくたろう・kazuaと同い年。射手座。AB型。仮に U子さん とします。仮に。
ここ「こんさくたろう」に集う方々 ほとんどの人は一度会ったと思いますが
ご覧のように ごくごく普通のおばちゃ…いや 女性。
体型は 普通よりちょっと多めですが 性格もいたって穏やかな 女らしい人です。
高校時代の同級生ですから 20数年前からのU子さんを知っていますが
そう 変わりない 性格も 体型も(多めの方で)。

ただひとつ 変貌した所を言えば ここ数年で完全に開花した 彼女の"おっさん化"。

休日なんかは オレが晩メシを作る事があるのですが 台所でフフフン♪と鼻歌まじりに
料理を拵えていると U子はタイミングを見計らって 風呂に入ります
上がる頃には 料理の2つ3つが出来ており U子は箸とグラス"だけ"を用意します
まだ作っている料理があるため「先に食べてていいぞ」なんて優しい気持ちで振り返ると
すでに 500mlサッポロ・クラシック缶はグラスに注がれ "お先に"の顔をしてやがる
それでも まだこの辺りはヨシとしよう U子の"おっさん化"は ココから本領を発揮する

まず 飯を食う基本姿勢は あぐら。それも上体を左右どちらかに傾ける
逆にオレは あぐらがかけないので 横座り。酒が飲めないので ごはん。
だからオレの晩メシは 15分で終了する だが15分という時間 U子さんにとって
まだまだ前菜も終わってない時間だ 終わっているのは1本目のクラシックだけ
オレのメシ終わりと同時に 2本目の500mlは空けられる

TVを見ながら「あ〜だ こ〜だ」言いながら 一人宴会は続く 酒のペースをこっそり
観察すると どうも1本目は早く 2本目からは料理を中心に ゆっくりとなる
そして"さとう 珠緒"が出るたび「チッ」と舌打ちをし かなりご機嫌を損ねる
それでも箸は止まらない グラスも空かない 戦いは中盤を向える この辺りで約1時間
テーブルの上は かなり淋しい状態になってくる 煮物など大量に作った料理があれば
この辺で"おかわり"が入る 悲しいのは ない時だ そんな時U子は冷蔵庫を漁る
悲しげな顔で 右手に魚肉ソーセージや竹輪を 左手には3本目のクラッシック
また 正あぐらで 一人宴会を開催する

1・5リットルのクラッシックが収まっても ほとんど酔う事はない
食べ続け 飲み続け 話し続ける。 その間オレは 席を離れる事を許されていない
オレがご飯を食べ終えてから ここまでの1時間半 いろんな話しに付き合う
TVの話題 仕事の話し サザンの話し サッカーの話し コンサドーレの話し
コンサの話題の中で よく出てくるのが "堀井 岳也"の話しだ
彼女はどうもお気に召さないらしい。もっともそれには オレも同感だが。
開幕戦から この1週間 U子は「ほるぃいは なんで走らないんだ」と言い続けた
あぐら 左体重で 問われると 迫力がある だから「さぁ なんでだろう」と
適当に逃げるしかない ヘタに油を注げば大火傷を負う 完全にクドイおやじだ
ちなみに彼女が言う"堀井"は「ほりい」ではなく「ほるぃい」だ"るぃ"の所が巻舌になる

一人宴会も2時間が経とうとしている それでも飲み足りなければ 仕上げの350ml缶
酒をまったく飲まないオレには 2リットル近くも体内に入る事が不思議だ
なにより体は大丈夫なのかと心配になる つい奥さま感覚で「いい加減にしたら」などと
口走ると「いいべさ」と逆ギレされる それでも なるべく ほどほどに。

そうして2時間に及ぶ U子の"晩ご飯"終了される。 ナイスファイト。
テーブルの上は 跡形もなく片付けられ 愛猫ミィも残念がるほどに 何もない。
あの体型を維持するには これ位のエネルギー補給が必要なのだろう タイヘンだ。

そして 食べ終えれば すぐに寝る。早い。それが8時台だろうと 寝る。
しかもベッドに入ってから 本気寝まで秒単位だ これも早い。3歳児なみだ。
8時台と言えば 小学生が塾に行ってる時間 少しは申し訳ないと思わんのかな。
そうしてU子の1日は終了する。1年365日 1日1・5リットル ほぼ同じペースだ。

メシや酒の時だけが おっさん化してるのではないですが これ以上書いて
もしも このコラムをU子さんに読まれたら と考えると 無理です 命は大事です。


高校時代 よく隣の席になった U子さん。寝癖のままの頭を よくからかった
当時はオレのことを嫌っていたようです 怖かったと。

就職試験の作文を5行しか書けなかった U子さん。
掲示板に一度も書き込まないのは そう言う理由があるからなのです。

化粧をした事がない U子さん。 口紅が 彼女の唯一の お洒落だ。
洋服も自分でコーディネイトすると とんでもない事になる。3・4日 同じでも気にしない。

熱い風呂が好きな U子さん。 けど 上がるのは早い 江戸っ子だ。
たまに銭湯へ行くと 必ず先に上がってる 小さな石鹸が カタカタ鳴ってる 怒りで。

サッカーにわりと詳しい U子さん。 そこらのニイちゃんより確かな情報源。侮れない。
「マリノスは強いがつまらん」「秋田はイイねぇ」など 趣向は完全におっさん。

外食は別メニューの U子さん。 同じ料理を頼んではいけない。オレのを少し貰うために。
「それ 少し 食わせろ」と目が訴える その目は本気だ オレは1人前を全部食べた事はない。

昔とは すっかり立場が逆転してしまいましたが それは それで 幸せに思っています。

いつの日か 彼女がこのコラムを読むでしょう そして きっと 怒るでしょう
でも こう言う表現もあるのです。こう言う ラブレターがあっても と。

射手座 AB型の おばちゃんで おっさんな 女。 U子。

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